「シッダーマスターが示す悟りへの道」ヨグマタ相川圭子著

「お酒の力を借りて顕在意識が緩むと、今度は怒りをため込んだ潜在意識の心のエネルギーが抜け道を探し出し、愚痴として口をついて出てきて、次第に解放されていきます。つまり、リラックスしたことによって顕在意識の思考のガードがはずれ、たまっていたもの、抑えられていた感情、悲しみや怒りが出やすくなるのです。ですがそれは単なる発散であり、意識が高まるわけではありません。自分の怒りに気づき、理解し、それを超えていかなければなりません。」

酒癖がいいとか悪いとかありますけど、酒癖がめちゃくちゃな人は、やっぱり過去生から積もり積もっていると考えたくなるほど、めちゃくちゃですよね。

お酒で何度も失敗したことのある人を知っていますが、残念ながら気づきがなかったということで。

「シッダーマスターが示す悟りへの道」相川圭子著

「現在は、うつ病や躁鬱(そううつ)病などの精神疾患が急増しているといわれています。・・・
いったんエネルギーがググッと落ちていくと、もう何もできないし、何もしたくなくなってきます。何カ月も何年も、エネルギーが高まるのをじっと待っていることになるのです。」

斉藤茂太の本に「もうダメだと思ったとき読む本」というのがありました。
とにかく何もしないで休みましょう!ということでした。

うちの会社にも何年も休んでいる人がいます。

もっといい解決方法があれば!と誰もが思っているはずです。

「人は言葉で言ってもなかなか変わりません。サマディの知恵をこうした蓄積された感情エネルギーに当てて、解放し、気づきます。すると、何十年も翻弄されていたネガティブな心から嘘のように自由になっていけるのです。」

人に言われても変わらない!
人に言っても変わってくれない!

自分で気づくと変わる。

「サマディエネルギーを感情エネルギーにあてると、感電したようにビビっとなって気づきが起こるのじゃ!」

僕の友達が言っていました。

「シッダーマスターが示す悟りへの道」ヨグマタ相川圭子著

「感情には、もともとそういったエネルギーがあらわれる、もとのエネルギーの記憶があるのです。そのエネルギーの記憶が、同じような状況に反応して湧き上がってくるのです。子どものころ、思うようにならなかったときの怒りの記憶があるのかもしれません。
こうしたことに一つひとつ気づき、取り除いていくことで、心を自由にすることができます。」

人によって行動するパターンというのはある程度決まっています。

何かが起きた時にどういうリアクションを示すか?

赤ん坊の時から、人それぞれおとなしかったり、泣き叫んだりと千差万別ですが、これにも過去生の記憶、エネルギーの記憶が関係しているのですね。

性格も過去生が関係している。

「シッダーマスターが示す悟りへの道」ヨグマタ相川圭子著

「体の動きを止めると、エネルギーはそこに注がれずにすむようになるため、今度は心に向かって流れ出すようになります。すると、心の動きが鮮明になってきます。静かな状態で心の内側を見ていくと、何かの対象と一体となっていた心がはずれ、ああ、ここに心があったんだなあと、心が目の前に映し出されてきて、心は動いているのだということがわかってくるのです。」

瞑想していると雑念ばかり浮かんできて、終わってしまうこともめずらしくありません。
このようなときは心のほうにエネルギ−が流れてるということだったのですね。

いやなことがあったり、気持が静まらないときに、昔はよくジョギングをしました。
運動すると体のほうにエネルギーが流れるので、心のほうにエネルギーが流れずに、頭が空っぽになる。

腑に落ちる話です。

「シッダーマスターが示す悟りへの道」ヨグマタ相川圭子著

「ヒンドゥ教の偉大なるマスター、シャンカラチャリヤは、一カ月のサマディを行い、他の体へと入り、それを終えてかえってきました。そのサマディは、「パーカラヤパラウェジュ」というシディです。彼は、当時の仏教の最高指導者である仏教哲学者と真理の論争を行い、真理を証明しました。サマディの実際の体験で真理を得ていたのです。そして、当時のインドの仏教徒のすべてがシャンカラチャリヤにサレンダーしたといわれています。」

他人の体に入るという話は「ババジが複数の姿形で登場する」という記録と同じよなものでしょうか。

チベット関係の本で、死体を生き返らせる黒魔術という話も読んだことがあります。

悟りとは必ずしも関係ないですね。
今日は話が脱線しました。

「シッダーマスターが示す悟りへの道」ヨグマタ相川圭子著

目に見えるものはわかりやすく、目に見えないものはわかりづらいものです。

ニュートン万有引力の法則の話もありましたが、物理学などの新しい発見では、今までに知られていないものを想定して、その存在を証明するということも行われてきました。

見えないものをどこまで信じるのか?

これは直感で判断するのが一番と思います。
そのためには自分自身の体験が必要になるでしょう。